研究テーマ           

  ここには、私の経歴や趣味などを記しています(2003.8)

                                     


略     歴 

神戸市出身。   

兵庫県立長田高等学校卒業、早稲田大学政治経済学部卒、京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士(京都大学)。
京都大学アフリカ地域研究センター研修員、関西学院大学非常勤講師、 同志社大学非常勤講師などを経て現職(富山大学人文学部教員)。




雑     記

街と森

神戸は、街全体が海のある南に向かって傾斜している大きな坂の上に乗っかっているような、見通しと陽当たりのよい町である。
こんな町に育って、道を歩きながら、あるいは教室の窓際の席や自宅の窓などから、なんとなく街並みや海を眺めるのが当たり前の生活の一部になった。しかし、おかげで、陽当たりが悪く視界が開けていない場所が大の苦手になってしまった。

大学時代は東京で過ごしたが、茫漠と人家とビルが続いて、空が切り取られたようにしか見えない東京の街に慣れるのにけっこう時間がかかった。また、大学院時代は京都に住んでいたが、周囲が山に囲まれた狭い街並みはいっそう閉塞感が強く、また、盆地の夜の暗さにも馴染めず、住み始めた最初のころは、よく神戸に「脱出」していた。

人類学を専攻して、調査地として選んだアフリカ、コンゴ共和国(当時はコンゴ人民共和国)の熱帯森林帯は、わずか数メートルしか見通しがきかないうえ、果てしなく森が続いて視界が開ける場所がなかった。そのうえ、交通路が小さな河川だけであったために外の地域との往来は少なく、住み込んだ村やキャンプは大海のような森林帯にぽつんぽつんと浮かんだ孤島のようなものであった。調査をはじめた当初は、孤立感と閉塞感に苛まされて、少々、精神状態に変調を来してしまった。アフリカの奥地で聞こえるはずのないぶつぶつ喋る日本語の声が聞こえてくるので妙だと思ったら、自分の独り言だったということもあった。

最初は、自分にもっとも適さない場所を調査地として選んでしまったとひどく後悔したが、半年ほど暮らしているうちに、少しずつ植物の見分けがついてきて、「木を見て森を見る」ことができるようになってくると、嘘のように閉塞感が去っていった。おびたたしい動植物の生命から熱帯森林が成り立っていることを、感覚として実感しだしたのも同じ頃だったように記憶している。
それからは、アフリカに調査に行って森のなかに入ると、はじめて足を踏み入れる森であってもどこか懐かしく、心と体が森の息吹でゆっくりと満たされていくような充足した気分に浸るようになった。


コンゴの森



アフリカの都会とは、最初から相性がよかったように思う。最初の調査行で、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサを経由して、当面の目的地であるコンゴ共和国の首都ブラザビルに着いたが、キンシャサもブラザビルも青く広がる空の下に人々の活力が満ちあふれていて、狭い日本の、さらに狭い京都盆地から抜け出してきた身には活気に満ちた開放感がたまらなく心地よかった。とりわけ、キンシャサの街は、日本に生まれ育って身につけた観念のいくつかを粉々に打ち壊して、いささか乱暴なかたちではあるが私の身体に染みついていた常識を相対化してくれた場所だった。

その後、中央アフリカの首都バンギ、ギニア=ビサウの首都ビサウ、ガボンの首都リーブルビル、カメルーンの首都ヤウンデと、いくつものアフリカの都会に滞在してきたが、どの街も忘れがたい。はじめて訪れるアフリカの国でも、空港に着いてタクシーに乗り込んで町中に向かい出すと、タクシーの窓からアフリカの熱気を含んだ甘酸っぱく濃密な空気が流れこんでくるような気がして、心も身体も嬉しくなる。

また、これまで滞在したどの街の市場も鮮明に記憶に残っている。市場に行くのには調査に必要な物品や町での生活に必要な日用品を購入したり、現地の生活事情を調べるという目的もあるが、とりたてて用がないときでも市場に赴いて、お喋りの熱気の輪に加わるのはすごく楽しい。

動植物の生命に溢れた熱帯森林と、人々の活気に満ちたアフリカの町々、どちらにとっても私は「研究者」として通り過ぎていくだけの存在だが、私にとってはどちらも間違いなく人生の一部となっている。


ビサウの市場




研究のことなど

歴史好きだった両親の影響で、小学校高学年から、父親の蔵書であった中央公論社の叢書の『世界の歴史』と『日本の歴史』を読みあさっていた。早熟な歴史少年であったと思うが、反面、男の子なら興味を持ってもおかしくない昆虫や工作にはまったく関心を持たなかった。長じてアフリカの熱帯森林で調査をするようになって、自分が自然や機械に無知であることを悔やむはめになった。
中学に入ると、ビザンツ史に興味を持って、当時は数冊しか出ていなかったビザンツ史の本に耽溺した。「後南朝」にも興味を持っていたが、どちらにせよ、オーソドックスを標榜してしぶとく歴史の舞台にしがみついておきながら最後は跡形もなくはかなく消え去ってしまうという歴史にやや屈折したロマンを感じていた。そのころは漠然と歴史学者になりたいと思っていたが、高校に入ってから、自分に語学や文献を丹念に学ぶ根気も能力もないことを自覚して、史学の道に進む夢はきっぱりと捨てた。しかし、今でも、歴史書は好きで、書店で面白そうなタイトルの本を見つけると、読む時間もないのについつい買ってしまう。また、ビザンツの史跡を訪ねて、イスタンブール、小アジアのトラブソンとカッパドキアには、いつかきっと行ってみたいと思っている。

高校卒業後、早稲田大学政経学部政治学科に入学したが、大学1年のときから酒場に入り浸りの怠惰な学生生活を送るようになり、大学の勉学にいちはやく関心を喪って、下宿で当時さかんに出版されていた一般向けの民族誌や人類学のエッセイばかり読みちらかしていた。研究者の道に進むことは考えてなかったが、大学4年の4月、『生物の世界』という本を読んだことが転機となった。おそらく、この本を読まなかったら、同窓生たちの多くと同様に一般企業に就職してアフリカなど無縁の生活を送って、歴史書と同様、暇つぶしの読書として人類学の本を読むという人生を送っていただろうと思う。当時、就職活動を始めだすとその時代の若者の髪型であった長髪をばっさり切りおとすというのが、70年代初頭の若者文化の”反権力”志向がまだかすかに残っていた当時の青春との訣別の儀式だった(その頃、流行った歌に、「就職が決まって 髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね」という歌詞があった)。『生物の世界』を読んで、髪の毛を切らずにそれまでよりも長く伸ばし出したことを憶えている。周囲の友人たちが次々と一流企業やマスコミに就職を決めていくなかで、自分なりの決意の表明であったと思う。

ともあれ、この本を読んで、大学院に進学して人類学を学ぼうと決心したものの、当時は人類学を学べる大学院が少なかったうえに、人類学とは縁もゆかりもない学部に在籍していためにどこの大学院でどういう研究ができるかという情報の入手も難しかった。文学部でなら人類学を学べるだろうと安易に考えて、同じ早稲田の文学研究科の社会学専攻に進んだが、進学後しばらくしてから、関心を持っていた生態人類学を学ぶには専門に学べる大学院に進んだほうがよいことが分かって、多少の紆余曲折の末、京都大学理学研究科の人類進化論研究室に入った。研究室に入った当初は大学で本を読んだりモノを書いたりするという理系の研究室の雰囲気や小学校の校区ぐらいの生活圏で完結している人間関係の濃密さに戸惑ったが、しかし、大学卒業後はじめて、自分がやりたいと思ったことを十二分にできる環境に身をおけたことは幸福であった。また、サルの研究者がゴッフマンやベイトソンについて熱っぽく論じる雰囲気のなかで、「理系」と「文系」という学問の二分法にさして意味などないことを、私はこの研究室で学んだが、これは他の研究室や大学院では学ぶことができなかった経験であったと思う。

振りかえると、(学部時代は勉強らしい勉強はしなかったが)社会科学から、人文科学、自然科学と3つの学部と大学院に籍を置いたことになる。そして、今はまた人文科学の学部で教える側に籍を置いている。流浪の学究生活だと言えないこともないが、最近は大学院の専攻が増えて事情は変わってきているものの、歴史の浅い日本の人類学ではこのような紆余曲折の経歴はそれほど珍しくない。人類学を研究するうえで、他の学問を学んだことが直接に役立っているということは、他の学問を専門として深く学んだ経験がない私の場合、残念ながらほとんどない。ただ、人間が織りなす営為についてさまざまな切り口や語り口があることを知ったことは、自分の関心領域を広げることに多少は役立っていると思う。






趣味のことなど



上にも書いたが、歴史書は、最近は忙しくてなかなか読む時間がないが、今でも好きである。これも両親の影響だが、少年期から文学やSFもよく読んでいた。高校時代は安部公房や柴田翔をよく読み、大学時代は開高健の作品も好んで読んでいた。出来たばかりの筒井康隆さんのファンクラブにいち早く入会したことも憶えている。しかし、アフリカに通いだしてから自分が経験している現実の方が面白くなったためだろうか、それとも感受性が鈍磨してきたためだろうか、最近は文学と名のつく類の本への興味はほとんどなくなってしまった。
ミステリも少年時代から好きだが、一気に最後まで読んでしまう癖を早くにつけてしまったために、まとまった時間がとれない今はほとんど読んでいない。数年前に読んだ『リオノーラの肖像』と『フロスト日和』は作風が対極的だが、どちらも面白かった。いわゆる本格推理よりも、推理のプロットがずさんでもストーリー性のある作品の方が好みである。時間ができれば、ボアロ&ナルスジャックなど大学時代に好んで読んでいた古いフレンチ・ミステリを読み返してみたいと思っている。


高校時代は神戸の三宮の小さな、いわゆる名画座に3本立ての映画をよく見に行ったし、その後もずっと映画への関心は持続しているが、最近は映画館に行く時間を取りにくいので、時間が空いたときにビデオ鑑賞ですますことの方が多くなった。いわゆる名作の定番だがフェリーニの『道』、やや冗長だがクロード・ルルーシュの『ライオンと呼ばれた男』など、職人芸的な演出と演技で見せる映画が好みで、ここ10年ほどの間の作品では、『恋愛小説家』が気にいっている。


少年時代を除いて大学卒業までマンガはほとんど読まなかったが、大学院の博士課程に進むころからよく読むようになった。とりわけ、忙しくてなかなか研究に関するもの以外の本を読むことができない最近では、短時間で読めるマンガは格好の気分転換になっている。本でもビデオでも借りるのが嫌いで、気に入ったものは買って手に入れないと気がすまない性分なのだが、マンガも一冊読んで気に入ると全巻をまとめて買ってしまう(ときどき、それで後悔する)。お気に入りは、『鉄コン筋クリート』、『あさってダンス』、『出直しといで』、『杯気分!肴姫』、『オフィス北極星』、『ぶっせん』、『ぼくんち』など。とりわけ、最後の『ぼくんち』の著者の西原理恵子の作品にはまり、共著を含めて作品はすべて持っている。


高校卒業まで行きは20分、帰りは1時間半という神戸の急坂が通学路であったし、自宅の裏山で遊ぶことが多かったので、少年時代に脚力はずいぶんと鍛えられた。このことは、アフリカでフィールド・ワークをするようになって、たいへん役に立った(現在は運動不足のために数キロ歩いただけで息があがってしまうという情けない状態に陥っているのだが)。卓球のような器用さが要求される種目を除いて、たいていのスポーツは好きだった。しかし、いわゆる「体育会」的な上下関係が苦手で、小学生のときに少年野球クラブに入っていたことがある以外は、スポーツ系のクラブに所属したことはない。

少年期の一時期を除いてプロ野球には興味がなかったが、大学に入って東京に住むようになってから、突如として関西人としてのアイデンティティに目覚め、熱狂的な阪神タイガースファンとなった。阪神が勝ち続けているといつ負けるかと心配で落ちつきがなくなり、負けていると安心するという、嗜虐的阪神ファンの典型であるが、阪神が1985年に優勝したときは、この世に奇跡が存在することを目の当たりにして、感極まった。阪神が春先から好調を持続した今年(2003年)は、シニカルな阪神ファンの仮面をかなぐり捨てて、テレビやラジオにかじりついて阪神を応援した。トイレに行くのを我慢すると阪神の選手がヒットを打つなど、個人的なジンクスが日増しに多くなっていき、優勝が迫ってくると、スポーツ観戦を楽しむなどという日常的な娯楽の域をはるかに越えて、テレビに向かって奇態な仕草をしながら呪文のような言葉を繰り返し叫ぶというほとんど宗教的行為の様相を呈していた。他人がこの様子を見れば、私が何かに憑依されていると思ったことだろう。
野球以外のスポーツでは、ラグビーのゲームを好んで見る。ルールが今一つよくわかっていないのだが、個人技とチームワークが絶妙なハーモニーを奏でる素晴らしいスポーツだと思う。もしも、青春をやり直せるなら、ラグビーをやってみたいとさえ思う。


音楽に関しては、幼時から音痴のうえにリズム感が皆無に等しく、そのうえ不器用であったので、よい思い出はほとんど残っていない。絶対音感ならぬ不確定音感の持ち主で、音がはずれても自覚症状がないし、人によれば、同じ歌でも歌う度に音のズレ方が微妙に変わるらしい。当然、私の場合、音符は何の役にもたたない。
楽器は、幼稚園時代に不器用なためと注意力散漫のためにピアノに進む前にオルガンで挫折し、高校時代にフォークギターに挑戦したが、けっきょく、コードをいくつか覚えただけに終わった。大学に入って、一つぐらい楽器ができないと人生が楽しくならないと考えて、音符を読まなくてすむ尺八のクラブに入ったが、これも初歩の段階で行き詰まってしまった。ただ、尺八は、かんたんな曲であればなんとか吹けるぐらいにはなった。最近は吹いていないが、肺活量が落ちているので、今吹くと、おそらく酸欠を起こすだろう。

自分でやる方はからっきし駄目だが、音楽を聞くのは嫌いではない。大学時代に大阪のブルース・バンド『憂歌団』が好きになり、それからずっと、彼らの歌を聴き続けている。バンドのメンバーは私より少し年長だが、権威にとらわれないやんちゃな自由さと巧まない暖かさを生き方としてずっと貫き続けていることを尊敬している(現在、解散中なのが寂しい)。
1988年、はじめてのアフリカ調査の際にキンシャサとブラザビルでリンガラ音楽に出会って、その活き活きしたリズムの虜となった。熱帯森林での7ヶ月間の調査が終わって帰国の途に着く数日前に、ブラザビルの庶民が集まる大きなディスコで、朝まで踊り明かした思い出は忘れられない。以来15年、いささか食傷気味ではあるが、元気がでないときはリンガラ音楽のCDを聞くことにしている。
1997年に調査に行ったギニア=ビサウの首都ビサウで、カーボ・ヴェルデという大西洋上に浮かぶ小さな島嶼国家の音楽をはじめて聞いたが、ガチャガチャしたリンガラ音楽に慣れた耳には、ポルトガルのファドの影響を受けているというゆったりと哀調を帯びたリズムはとても新鮮で、あっという間に気にいってしまった。カーボ・ヴェルデ出身のセザリア・エヴォラという世界的に有名な女性歌手がいることを知ったのは帰国してからだったが、以降、アフリカ調査の帰路にパリやリスボンで買い集めたカーボ・ヴェルデ音楽のCDは20枚を突破した。気持ちが妙に浮ついてざらざらとしているときに、この静かな吐息のような音楽を聞くと、心の波が鎮まってくる。





はじめて自分の過去を振りかえって文章にしてみたが、こうしてみると、「脈絡のない凝り性」の半生であったような気がする。たぶん、これから先も彷徨いながら、ときおり、じっと立ち止まってみるという人生を送ることになるのだろう。


 
2003.8          



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